翻訳会社の立上げ


1980年代の初め、私がまだフリーの翻訳者だった頃、当時最大手の翻訳会社で営業をやっていたA氏が独立して翻訳会社を設立した。

きっかけは、米国のダートマス大学でコンピュータ・サイエンスを学び、米国のIT企業にいた人物B氏と知り合ったことだ。 聞いた話しでは、 B氏はかつて在日米軍基地内のコンピュータ・ネットワーク・システム構築の提案書を徹夜の連続で10日間という短期間で書き上げ、そのプロジェクトを受注した実績があるという。米軍の基地と聞いて、私の父がかつて横須賀の米軍基地に務めていたこともあって条件反射的に親近感を抱いてしまった。

当時はまだパーソナルコンピュータの黎明期で、マイクロソフトのMS-DOSで決まり、というわけではない時代。むしろ8ビットパソコン用の初めてのOSとして開発されたDigital Research社のCP/Mのほうが優勢だった(*)。そんな中、B氏はある会社がCP/Mを日本に持ち込んで普及させる手伝いをすることになり、このOSのユーザー・マニュアルやコマンド解説書など一連のドキュメントの日本語版の翻訳・制作をA氏が引き受けることになった。


* 20代後半の頃、富士通の川崎工場の中にあるドキュメント制作部門に派遣されていたことがある。その職場で知り合った英国人が一年ほどして辞めることになった。「ここ一年、ずっと準備をしていたんだけど、自分のブランドのIBM PC互換機を製作・販売する会社を始めるんだ」、と打ち明けられた。

私はそれから一年ほど経って、富士通の仕事を辞めて翻訳を本業にするようになるのだが、そのとき彼の紀尾井町のオフィスを訪ね、彼のブランドのPCを購入した。金額がいくらだったのかは忘れてしまったが、幾分かディスカウントしてくれた。そして、この8-bit PCマシンのOSはCP/M だったのだ! (彼はその後16-bitマシンを発売するが、OSにはMS-DOSを採用した。)

画面は黒の背景に文字とカーソルが緑色に光っていて、なかなか感動的だった。対応言語は英語だけ。当時はまだ日本語が入力できるPCは存在せず、ワープロ専用機が勢いを増し始めた頃だった。

記憶媒体はペラペラの5インチ・フロッピーディスク。これも彼が扱っていたドイツのBASF社のものを購入した。訪ねたのがちょうど昼飯時で、日本人の奥さんが作ってくれたカルボナーラ風のソースのかかったステーキランチを彼があっという間に平らげたのを何故か覚えている。その後、フロッピーのストックがなくなると、当時私が住んでいた家の最寄り駅である高円寺まで届けてくれて、駅前の喫茶店でしばらくよもやま話をすることが何度か続いた。

1984年のある日、A氏から話しがあると呼び出され、両氏の事務所のあるパレロワイヤル永田町の一室で面談することになった。とても作りの良いオフィスだった。このビルは国会議事堂の近くにあるため多くの政治家が事務所を構えていた。その後、ここを訪れるたびにエレベータ前で著名な政治家に出くわした。

翻訳を生業にする以前、大手の翻訳会社の工程管理のアルバイトをしながら、技術英語翻訳の草分け的存在の先生を講師とする技術英語研究会に参加していた。A氏はこのことを知っていて、仲間の翻訳者等とともにCP/Mの翻訳プロジェクトに加わってもらえないか、というのがこの面談の主旨だった。

断る理由はなかった。すぐに会社設立の準備を開始し、研究会の仲間数人に声をかけ、体制を整えた。研究会の講師である水上龍郎氏にも事情を説明し、社名を付けていただけないかと相談すると快く引き受けてくれた。その場でしばし考えてから、「ニューテック」はどうですか、新しい時代の技術を翻訳する、という意味合いです、と説明された。一も二もなく採用した。

こうして私にとって初めての翻訳会社が立ち上がり、暫定的に、パレ・ロワイヤルのオフィスの一室を使わせてもらった。

CP/Mの翻訳はその後しばらくして始まり、ごく短期間で完了した。しかし、コンピュータ業界では、その2~3年ほど前にIBM が自社開発のPC用のOSをマイクロソフトからOEM供給を受ける契約に調印しており(このOSが後にマイクロソフトのMS-DOSとなる)、いわゆるIBM PC/AT互換機(日本だとDOS/V機)の時代が訪れようとしていた。時代の波に抗うことができず、CP/Mは急速にPC OSとしての支配力を失って市場から消えていった。

我々が翻訳したCP/Mのドキュメントは結局、どこにいってしまったのだろうか (泣)。

(続く)

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