翻訳会社の立上げ その2

技術英語研究会

私が大学2年生の頃だったか、父が勤めていた叔父の会社(医療用の真空ポンプの製造を主力とする小さな町工場)の経営が立ち行かなくなり廃業することになった。それまで私は、叔父夫婦に子供がいなかったため、その工場を私が継ぐものだと勝手に思っていたので、はしごを外されたような気持ちになり、さてどうしたものか、と考えるようになっていた。大学での勉強をきっちりとやって卒業し、どこかの会社に就職する、という道ももちろんあったが、ぼんやりと、自分がサラリーマンをやる姿が想像できなかった。

それから2年ほど経ってからだろうか、私は日本科学技術翻訳協会の「Technical Writing誌上セミナー」という講座で翻訳の勉強を始めていた。この辺りの記憶が定かではないのだが、すでに英語で食べていこうと決めていたのだと思う。そして、何はともあれ自分の現状の実力を知っておきたいと思い、この協会が実施する翻訳士試験を受けることにした。

このとき、父にも声をかけた。工場の廃業後、父は叔父の紹介で横浜市の綱島にある取引先企業の社員となり仕事をしていた(真空ポンプの製造に詳しい父がその部門のリーダーを補佐していたらしい )。英語の能力はもちろん私よりも上だし、米軍横須賀基地を辞めてからは機械加工の現場でずっと仕事をしてきたのだから、その両方の知識・技能を生かせる仕事は父にとってもやりがいがあるに違いないと考えたのだ。話してみると、父は「こういう分野の英語には触れたことがないけど、面白そうだなぁ、やってみるか」、とすこし嬉しそうな顔をした。

試験を受けたのは 夏の暑い日だった。二人共、見事に落ちた。これで二人共「ちくしょう!」という気持ちになり、身を入れて産業英語というものの勉強を始めた。
※もっとも、父は米軍基地を辞めてからすでに10年以上も経過していて、すっかり英語から離れていたので仕方がなかったかもしれない。

それからしばらくして、月刊誌『工業英語』のページを繰っていると、末尾のほうに「水上龍郎」の文字が見え、山手線田町駅に近い機械工具会館で技術英語研究会を定期的に開催中とあり、参加者募集と書かれていた(偶然にも、田町駅の反対側の改札を出てしばらく歩くと私が通っていた大学に行きつく)。一人で勉強していても埒が明かない、これはもうやるしかないと、研究会の世話人役に入会を求める手紙を書いた。

返事は日を経ずして届き、指定された日時に勉強会の会場に父と連れ立って訪問し幹事役と話すと入会はすぐに決まり、早速、その日の勉強会を見学させてもらうことができた。

水上先生は1964年、32歳のときに、ブローカー的翻訳会社ではなく、翻訳者が社内で翻訳をする専門家集団としての会社を日本で初めて設立した方だということを後で知った。高度成長期に日本企業が製品を海外に輸出する上で欠かせない技術文書の翻訳を支えてきた先頭集団の中の代表的存在の一人だった。

研究会は、当初は月に3回、土曜日の午後に行われていた。基本的には、先生から課題の日本文が出され、それを持ち帰って各自が英語訳を作り、次の回にそれを黒板に板書し、先生が講評しつつ、こうしたらもっと良くなる、こんな書き方もできる、などとコメントしてくれる。そしてそこから発して、さまざまな知識やノウハウが開陳されてゆくのである。

水上先生と出会ったこと、研究会で学んだことは、そこで出会った仲間たちとの交流を含め、父にとっても私にとってもまさに宝物となった。翻訳というのはこういうことなのか、と毎回のように目を見開かされた。その真髄を先生の言葉で言えば、「個々の単語にとらわれず、技術文の底に流れる思想をつかむこと」ということになるだろうか。

水上先生から学んだことは星の数ほどある。技術英語研究会は東京だけでなく、大阪にも存在した。大阪の方々は2004年に『水上龍郎先生講義録』という詳細にわたる講義録を編纂しA4サイズの厚さ1.5 cmほどの本にまとめ、会員が安価に入手できるようにしてくれた。この中に水上先生が翻訳をはじめてまだ日が浅い頃を回想して語られたこんなエピソードが掲載されている。

自分の訳した英語は、アメリカ人による朱でほとんど原形をとどめずといった風情であった。しかし、日を重ねるにつれてチェック箇所が目に見えて少なくなっていき、自分は気を良くしていた。ある日、居酒屋で一杯やりながら 部長は私にこう諭した。「アメリカ人は日本語の原文と突き合わせて英文を読んでいるわけではないから、訳者が何を書いても内容のチェックは不可能だ。君のはどちらかというと優等生の英作文になっている。英文は整っているから直しようがない。チェッカーのために英語を書いているのではない。原文の主張する考え方をこんな英語でしか表現できないが、この苦心を察してくれないか、という気概を持つべきだ。ここには思う存分アカを入れてほしい、とチェッカーに要求する姿勢が大切だ。」これは痛かった。

私は、自分が英訳をするとき、正確な英語を書こうという気持ちが強く、出来上がった訳が原文の日本語の言わんとしていることから微妙にずれていると感じることがよくあった。このエピソードを聞いて強い戒めを感じた。

私自身が研究会に通っていた期間は、実のところ父に比べるとごく短かかった。会社を立ち上げてからは、仕事に忙殺されるようになり、次第に参加する頻度が減ってしまったのだ。一方、父は、先生が病気で倒れられ、その後、会が消滅するまでずっと参加し続けていた。

土曜日の研究会の終了後、皆がそのまま家路につくことはほとんどなく、多くの仲間が田町駅までの道沿いにある飲み屋へと入って二次会が始まり、終電近くまで会話が続くのが恒例となっていて、父も常連の一人だった。毎年行われていた研修旅行にも欠かさず参加していた。水上先生と研究会の仲間たちとの30年にもわたる交流は、父の終生の楽しみだったろう。

(続く)

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